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Twitter Send 2010/07/13 14:56 KST
ドイツ外交文書「日帝、日露戦争後に高宗拉致を計画」


【ソウル12日聯合ニュース】日露戦争直後、日帝が朝鮮王朝末期の高宗皇帝を日本に拉致する計画を立てていたことがドイツの外交文書で明らかになった。

 明知大学のチョン・サンス教授が12日に、同文書の複写本を公開した。公開された文書は2件で、1905年2月14日と同6月2日、当時のソウル駐在ドイツ公使だったザルデルン氏が本国に送った電報。チョン教授が2008年にドイツ外務省の政治文書保管所で発見し、コピーした。

 1905年2月に作成された文書は「日本人が高宗を日本に移そうとしたが、再び戻れなくなることを懸念した高宗が拒否した」との内容が記されている。この文書は機密文書として扱われ、ドイツ皇帝が目を通したことを意味する表示が残っている。文書の余白には当時のドイツ皇帝・ヴィルへルム2世の筆跡とみられる鉛筆で書かれたメモもある。チョン教授は「メモの字が薄く、正確には読み取れないが、拉致計画が成功するはずがないという内容のようだ」と説明した。

 同年6月に作成されたもう一つの文書は、2月の文書の内容を裏付けるもので、当時のソウル駐在米国公使だったモーガン氏から聞いた話の内容を伝えている。

 同じく機密文書として扱われた同文書には「日本人が朝鮮を保護国化し、高宗を廃位させ日本に拉致するため、英国に問い合わせ同意を得た。日本は同じ内容を米国にも問い合わせたが、ルーズベルト大統領は保護国化の部分に対する決定は留保し、高宗の廃位と拉致関連内容に対しては批判的だった」との内容が盛り込まれている。

 両文書の内容を総合すると、日本は高宗を韓日併合の障害物とみなしていたほか、高宗を日本に拉致する計画が単発的なものでなく、数回にわたり企てられたことを確認できる。米国の承認が必要だったのは、当時、高宗が滞在していた「重名殿」が米国公使館と隣接していたためと考えられる。

 チョン教授は「当時ドイツがこの文書を根拠に米国側に改めて関連内容の確認を要請した結果、米国側からは朝鮮半島に対し積極的な政策を展開する考えはないとの返事があったとの記録がある」と説明した。

 こうした米国の立場は同年7月に締結された、日本と米国がそれぞれ朝鮮半島とフィリピンに対する統治権を認めることを骨子とする「桂・タフト協定」とも関連があると推測される。

 チョン教授は行為の主体が「日本人」とだけ記されており、誰が命令したのかは明確ではないとしている。しかし、当時の状況を考慮すると、のちに初代韓国統監となる伊藤博文が主導し、当時の長谷川好道陸軍大将や林権助日本公使が実務を担当したとみられると分析した。国内の資料と日本・米国の資料が見つかれば、より詳しい内容が明らかになると述べた。

 これと関連し、ハンガリーのエトヴェシュ・ロラーンド大学(ELTE)の韓国史講師、Karoly Fendler氏も、26ページにわたるロシアの文書を根拠に、日本が高宗を自国に連れて行こうとしたと主張した。

 同文書は各国駐在のロシア大使館とロシア外務省がやり取りした電報で、Fendler氏が1990年代初めにロシア帝国外交文書保管所で見つけたものを手書きで写した。

 Fendler氏によると、1905年4月22日に駐ベオグラードロシア大使館で、日本の意図に関する秘密情報を初めて入手したロシアは、ロンドン、パリ、ワシントン、北京などのロシア大使館に対し、駐在国の政府に日本の意図を知らせるよう秘密電報を送った。また、同年5月1日に駐北京ロシア大使館が本国に送った電報は「(日本の意図に対する)中国政府の反応を要請した。中国政府はいかなる関連情報も得てはいないが傍観はできないとし、即答を避けた」との内容だった。

japanese@yna.co.kr